ジャン・コクトーの本たち。センターの本には澁澤龍彦訳の素敵な詩が書いてあります
ジャン・コクトーの本たち。センターの本には澁澤龍彦訳の素敵な詩が書いてあります

皆々様(*’ω’*)!こんにちは。サヴァネコ(サバネコ)でございます。
なんやかんやと慌てふためきながらも、10個くらいブログが投稿出来たところで、初めて一行目で挨拶をしてみました。
普通のことなんですけどw、軽やかでこれはこれでアリだなと思いますので、たまにはちゃんとまず初めに挨拶をしたいなと思います(←たまにですよ。フフッ)。

ジャンコクトーにほぼ興味のない方でも知っているコクトー話って何かあるかしら?と改めて考えてみたのですが、古い映画ですけど『恐るべき子供たち』はたまにお洒落さんな雑誌とかでもどさくさに紛れて紹介されていたりするので、ご存じの方はいるのかもですね。

『恐るべき子供たち』は、コクトーの小説の映画なので、当然小説があるのですけど、原作を読んだことがあるという方はそういないんじゃないかなと思います。

若くして天才と言われ、しかし若くして天国へと旅立ってしまった『肉体の悪魔』の作者ラディゲ(注意*ラディゲは男性です)の愛人だったと言われておりますけど(ラディゲにカルティエ社の所謂ラブリングをプレゼントした時、シャンパンを注いだグラスに指輪を沈ませてあげたとかどうとか。。。ちょいキザと思うかダンディと思うかはあなた次第です)、そもそもラディゲは日本ではそんなに有名作家ではないように感じますから、どうなんだろ?カルティエ大好きな港区女子の方なら(別に港区女子じゃなくてもいいんですけどw)そんな話も知っているのでしょうか。

はたまたコクトーは阿片に溺れてしまい薬物依存で大変だったのですけど、その暮らしを支えた一人がシャネル(要するにシャネルがコクトーのパトロンという事ですね)だったとも言われています。
実際シャネルとコクトーはとっても仲がよかったようです。
こんな話もひょっとしてシャネル大好きな港区女子の方なら(くどいですけど、別に港区女子じゃなくてもいいんですけどw)御存知かもしれないですが、何となく知らない可能性の方が高いですよね。だってどうでもいいだろうし。

コクトーは何か抜きに出て凄い人と言うよりも、自分を売り出すことに凄い長けていた人のように私は考えています。

コクトーについて語る三男トラ猫
末っ子三男トラ猫にも、コクトーと澁澤龍彦の言葉の力強さと美しさを、是非とも分かって頂きたい、分かち合いたい!

博識で器用で、詩から小説~絵画~演劇まで、幅広く上手に活躍していたと思いますが、その中でも言葉の切り取り方が非常に上手ではあるので、フランスでは詩集は今でも一定の人気があるようですし、日本でもコクトーの詩集は新潮社などが出していますね。

今Amazonで調べたら本より絵の方が人気なんでしょうかw。笑うとこじゃないかもですけど・・・「そうなんだ」と思いました。はい、そう思っただけです。
コクトーが何者か分からないでこの絵(の印刷)だけで1万円以上かぁぁぁ。と、そう思っただけです。

人の価値観は人それぞれ。ではあるのですが、蘊蓄があると更に旨味と深みが増しますので、今回のアフォリズムはアフォリズム好きの方だけでなく、「リビングにコクトーの絵を飾っているけどコクトーってつまりどゆ人?」と思っている方にも是非お勧めのものでございます。

数年前、Googleさんに教えてもらった仏文のアフォリズムを紹介している方のブログがあったんですけど、数日前にこのブログを書くために改めて検索したら全然出てこなくてなくなっちゃったのかもしれないくてとても残念なのですが、その方がご紹介していたコクトーのもので、

【L’amour et la prière ont le même secret.】「愛と祈りは同じ秘密を持っている」

この言葉はぐっさりきまして、仕事をしていても行き詰ってしまった時などによく思い出しています。

ジャン・コクトー詩集の表紙。いかしたジャン・コクトーの写真。
趣味にもよるかもですが、イケメンさんと言われりゃそんな気もするコクトー御本人です。

この”同じ秘密”とは、その人間関係だけに通じる”清らかさ”や”透明感”あるいは”切なさ”かもしれませんし、はたまた”傲慢さ”、”独善的”、”偽善的”かもしれません。

思い出したその時々の状況によって”同じ秘密”は変化するのですけれど、どの言葉を秘密に組み込んでも、まるで何かに試され確認されているような気持ちになり、ドキドキしてきます。とても強い言葉だと思います。

もう一つは、私が高校生の時に読んでから憑りつかれているコクトーのアフォリズムです。

澁澤龍彦の『洞窟の偶像』(河出文庫)の148頁~150頁で紹介されているコクトーの『アイン・ツヴァイ・ドライ』という詩の最後の数行です。

当時私はこの詩の最後を読んだ時、背後から頭をコンクリート・ブロックでガチ割りされたような強い衝撃を受け、以降ずっとこの言葉に憑りつかれているくらい好き・・・というか気になっています。

澁澤龍彦の訳が(相変わらず)素晴らしいからなのか、何か違う理由もあるのかを確かめたくてコクトー全集も読み漁り、原文を探したのですけれども、今の今まで(アホなので)見つけられていません。

ですので原文が分からず、しかも最後の一行のしめは自分自身に言い聞かせるのに相応しい止めに変更しておりますので、澁澤龍彦の訳まるまるが知りたい方は文庫なので買ってあげてくださいまし。
(この詩はコクトーの章になく、ニーチェの章に書かれていますw。澁澤龍彦の抜群の何というかがこんなところでも垣間見えますね)

「あまりに多くを予言する者、あまりに多くを語る者は 手酷い罰を受けねばなりません」

そうなんだろうな、と思いますし、これを書いたコクトーもまた・・・彼の人生を思い返しますと、想像を絶する手酷い罰を受けたのでしょうと・・思います。

このアフォリズムが私の脳に刻み付けようとしていること。

それは何かを語る時、それが目がはっきりと捉えて認識できたものではなく、仮定や想定を口に出すのならばなおさら、いつも覚悟・・・覚悟と併せて何かを引き受けなければいけない観念した気持ちを持っていなければいけない、という事だと考えています。

まだ高校生の頃に目にした詩で、そこから私が一体何者になるかは、私自身は当然として未だ誰も分からなかった頃から、このアフォリズムは全てを見通しているように私の心にザックリ傷をつけてくれました。

ですが、人は非常に心地よい響きの言葉や記憶以外は、良いことも悪い事も関係なく、薄れてしまいがちで真剣に思い返さないと忘却の彼方から呼び戻せなくなってしまい、また逆に苦しみも喜びも過剰に虚飾され過ぎてしまうものなので、この言葉の”そのまま”をいつも・・・特に仕事をするようになってからは片時も忘れない為に、トイレの壁や手帳、iPhoneのメモなど、いつでも目に入るようにしています。

言葉の力と美しさを体感出来るだけではなくて、人生を一文で変えてしまう、目に映る景色の色さえ変えることができる、珠玉の言葉で出来たアフォリズムは何物にも代えがたい、私にとっては宝物そのものです。